駅前や公園に設置されたブロンズ像。よく見かけますよね。その多くは武将や郷土の偉人でしょうか。今日は、そうしたブロンズ像について感じる「疑問」に触れようと思います。
疑問9(ブロンズ像)
以前観た民衆によってレーニン像やフセイン像が倒されるテレビ映像。価値観の180度転換を巨大な衝撃で印象付けられました。また最近、米国でもそれと同じブロンズ像事件が起きました。ただ前者が体制基盤の創始者や最高権力者であったことがその誘引ですが、米国のは、その人が過去にした人種差別行為が原因のようです。いずれにしても、そのブロンズ像設置当時は、像になった人のもつ思想や価値観の正当性、普遍性を信じてのものであったでしょう。ただ価値観は刻々と変化するものです。例えば僅か四半世紀前まで、いまのようなパワハラやセクハラといった概念や規範が、これほどまで敷衍性をもつと、如何ほどの人が予想したでしょう。また国内にある武将のブロンズ像については、その人物の実態を陰と陽でとらえるなら、多くはその陽の部分に傾倒した歴史が語られるばかりで、例えばジェノサイド遂行の最高責任者などという陰での評価はほとんどありません。しかし今はそうでも、価値観の大転換は歴史上幾度も経験されたこと。将来、人物評価の大転換はあり得る話です。それなのにブロンズ像は、何のために建立されるのでしょう。当然その人柄や偉業を称えるため。あるいは為政者が期待する人間像の見本としてなのでしょうか。いずれにしても価値観は時代の変遷とともに移ろいやすいものです。今仮に偉人として評価される人も、ひょっとしていつか汚名の評価にまみれるかも知れません。そしてもし、あの世から自分のブロンズ像が倒される光景が見えたら、その絶望たるや計り知れないものでしょう。ただ言えるのは、黙して語らず静寂の木立に佇むブロンズ像達に、こんな「疑問」を感じるのは、これからもブロンズ像になれそうにない人のブロンズ像になれた人への、みみっちい単なる妬みかもしれません。
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