77.宗教はお好きですか?

今日は、以前このブログにあった(70)賽銭?=脅迫?の二番煎じのような話で、あしからず。え~っと宗教と言っても、たいてい新興宗教の方。布教に来られ、おっしゃられる言葉に、こんなのがあります。「なにか、ご家庭などで、お困りごとありませんか?」という常套句。「ありますあります、そりゃ人間日々生活してりゃあね」と心の中で呟くのですが、口では「今のところないですね」と答えてしまいます。なぜなら、たとえ心の中で「あれも困った、これも困っている…」といっぱい浮かんできても、ひとたび「内のバカ息子には困っちゃうの~」なんて口にしたら「それはね、熱心に信心すれば、◎◎のお力できっと解決しますよ」といった集中砲火は明々白々。そしてもう一つ、そもそもそうした布教の言葉って、慇懃無礼な脅し文句じゃない?…って思うこと。では、そんなこんなが今日のHatenaです。スタート!

疑問(77)宗教はお好きですか?

以前、ある新興宗教の方が家へ布教に来られました。その人とは古くからの友人でしたが、宗教の話が出たのはその時が初めて。そして打ち解けて話をするうちに出ました、出ました「家族の事で何かお困りごとない?」というあれです。それで他愛のない話を二三したのが運の尽き。「まさにそれこそ重大な悩みだ、不幸の源だ」と言わんばかりに朗々と「自分も同様の悩みを信心によって解消でき、今はとても幸せです。だからあなたも是非是非」と某宗教こそ我命のごとく何度も何度も繰り返されました。それで、もううんざり、思わず言ってしまいました。「○○さん、傍から見ていると、ちっとも幸せそうじゃないよ」と。まあそれでも○○さんの寛大な人柄のゆえなのか、あるいは、そうしたことを言われ慣れているのかどうかわかりませんが、今も仲良しは続いています。ただその時のことを思い出すと、気に食わない事はまだありました。往々にして人は他人から「あんたは不幸だね」なんてハッキリ言われたくないものです。たとえ自分自身が「自分は不幸だ」と認識していても、です。もちろんその時○○さんは「あんたは不幸だ」とストレートには言っていませんが、心の中では「軽微な困り事とこの人は思っているかもしれないけど、これは不幸!」とまず認定したはずです。さらには「あなたは信心しさえすれば、その重い不幸から解放される」といった内容をストレートではなく、少しソフトにアレンジして発言したのです。そもそも自分が幸福か不幸かなんて自分自身しか判断(あるいは思う)できないはずなのに、なんと尊大な話しでしょう。ともあれ幸福が不幸かの判断基準は人それぞれ曖昧模糊として虚ろなもの。日常生活の価値観は各自千差万別。他人の幸不幸などとても判断できるものではありません。そしてこれは旧統一教会の「解怨」にも類似していませんか? つまり「信心によって悩みが解消できた」あるいは「信心で幸せな家族関係ができた」いずれも問題ありそうな発言ではないように思えますが、ブログ(70)賽銭=脅迫を思い出してください。「賽銭くれなきゃイイことないよ!」というアレです。つまりこれらは「信心で悩みが解消」→「信心しないと悩みは解消しない」あるいは「信心で幸せな家族」→「信心しないと不幸な家族」といった脅し文句のソフト化あるいは巧みな裏返しですよね。人は意外に「殺したるでー!」というようなストレートな脅迫より「プラットホームの一番前に立つなよ」といった婉曲な脅し文句の方を意外とビビルものです。それが警察など公権力の網を潜り抜ける狡猾性を内包しているからかもしれません。が、ともかく「この有難い品物を買うと幸福になるよ」→「この有難い品物を買わないと不幸のままだよ」の霊感商法もそうですが、こうした布教活動に対処するには冷静な眼力が絶対に必要かもしれません。『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリが『21世紀のための21の教訓』の中でこう述べています。

☆宗教とフェイクニュースを同列に扱うと、気分を害する人が大勢いるだろう。だが、まさにそれこそ私が指摘したい点なのだ。架空の話を千人の人が一か月間信じれば、それはフェイクニュースだ。だが同じ話を十億人が1000年間信じれば、それは宗教である。

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