56.笑えないお笑い

日常生活で笑いの対象一番は、やっぱりプロの漫才や落語や喜劇でしょうか。もちろん誰かのへまや、ちょっとした物言いの大爆笑もありますけどね。しかしそれで生活の糧を得る笑いのプロの「笑い創造術」はさすがです。訂正!~さすがのはずです、きっと…とまあそれも段々心もとなくなってきます、なぜでしょう。もちろんM1グランプリ優勝者についても然りですよ。今日はそんな疑問でいきます。では…

疑問(56)笑えないお笑い

当然笑うには、見聞きする側の感性に負うところもあります。ですが、何にでも笑えれば感性豊かな人とも言えなさそうです。最近ではドリフターズや、中でも志村けんさんの再放送番組を視聴する機会が増えました。その演技に漂う創造的なオーバーアクション。まさにチャップリンを彷彿とさせるような緻密さで演技されています。それはきっと、こよなく愛した銀座通い以上に労力を惜しまず実行された、人間観察の結実でしょう。視聴する者にとっては内心に秘める機微に触れられた時のような、羞恥というか何というか…。それが湯水のごとく湧き出て毎回爆笑から爆笑へと繋がるのでしょう。志村けんさん自身、極貧の下積み時代を語る中で、TVでこんなエピソードを紹介しています。小さいころから人間観察が大好きで、と言っても街中を四方八方散策するお金もないので、裸足にサンダルの絵を描き(一時履物を買う金もなかったそうです)暇な日は都電に時間の許す限り乗ったそうです。そこでは時間帯による人々の風情や会話の変化、また他の乗客が足の絵に気付いた時の驚きの表現といった、後日爆笑創造の礎になった色んな観察経験ができたそうです。例えば志村けんさんにとってもエポックであろう「ひとみばあさん。」これも市井の観察から生まれたもので、やはり実在の人がモデルのようです。実社会における生身の人間の徹底的観察。その上で微妙な現実との齟齬や誇張表現の薄皮を演技に貼つけ、視聴する者の心にささやかな優越感と歯がゆい、もぞもぞ感を与え爆笑へといざなう。そんな天才コメディアンが今どこにいます?そしてもう永久に現れない?…なんて言ったら、他の人に怒られるかも知れません。とにかく今は毎回緩慢で怠惰な笑いの繰り返しがTVを席巻しています。それに呼応するかのようなバカ笑い(失礼、大笑いに訂正します)。ただこんなところで、どうして笑うのだろう?…なんて思っていると、それが実はあの「BGMもどき笑い」あるいは「録音笑い」といった代物の場合があります。それを英語ではLaugh Trackと言うそうです。しかしそれも多用すると、あまりに白々しいので最近は制作スタッフなど生のバカ笑い(失礼、また言ってしまいました)が利用されています。ただもし、こんな人が私生活で傍にいたら、その意味のないバカ笑い(またまた失礼)に悩まされて、いつかきっとノイローゼになるだろうと思うような出鱈目で単に大声だけが耳に残る笑い。前のブログに近ごろやたら多用されるドラマのBGMについて「それが役者の演技力の劣化を隠蔽するもの」といった憎まれ口を書きましたが、お笑いについても、それは全く同じだと思っています。つまり、お笑い芸人にとって笑いの数はまさに信任投票のようなものですから、本来作為的な笑いなど介在させるべきではありません。もちろん視聴する側の資質もどう?などと問われれば、全く自信はありません。ですが、まずはお笑い芸人にお笑い芸人としての「お勉強や研鑽に時間を割く」を心掛けてもらえば、それに照応して視聴者の芸を視聴するレベルもきっと上がるのでは…と楽観しています。そのためには、業界もお笑い芸人を志す人への最低限の生活保障や、さらにお勉強や研鑽時間を充実してあげてはどうでしょう。一方、吉本興業のような大手プロダクションには今風の利益至上主義といった底流があります。さらにそうした方針に合致した人を、それほど技量もないのにテレビとの親和性などを考慮し、M1グランプリなどに出場させて知名度をアップし、手早く売るといった手練手管。もちろんそのM1優勝者は勝者なりの力量をお持ちでしょうが、なにせ粗製乱造傾向ですから、おしなべて近年お笑い芸人の劣化は酷く感じられます。そんなこんなで、やっぱり最後には「TVのコメンテーターやるくらいなら、芸を磨いてほしいです」などと締めたいですね、お笑い芸人さん。

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