ロシアのウクライナ侵攻は2月24日の首都キーウへの攻撃ではじまりました。その後、ロシア軍はチェルノブイリ原発を占拠。そして今日(7月5日)まですでに131日が経過しました。その間、民間人の死者は国連発表で4700人(6月末)、亡くなった兵士の数については当事者にとって機密事項に当たるため、その実態把握は難しいようです。ただBBC放送の独自調査によると4010人(6月末)のロシア兵が戦死していると発表(但しウクライナは6月下旬で推計3万5千人のロシア兵が戦死したとしています)。また同様にウクライナも自軍の戦死者数をほとんど公表していません(但しロシアは4月の時点で2万3千人のウクライナ兵を殺害したと主張しています)。またウクライナの大統領顧問は、毎日100~200人のウクライナ兵が亡くなっているとBBC放送に語っています。義憤にかられ、またその愛国心により兵士も市民も戦うのが戦争ですが、戦死する人をこれ以上増やさない。今はこれこそ、この場に及んでしまった為政者が考えることではないかと思っています。なのに、なぜそうしないのか「疑問」ですね。あれだけ日頃「命が一番!」「命あってのもの物種!」といっているくせに…ですよ。では前に続いて二回目になりますが、今日もこのテーマでいきます。
疑問25(続ウクライナ侵攻)
あの太平洋戦争末期、戦争遂行の上位者であればあるほど、敗北を認め終戦とするべきとの進言に対しては「戦況が悪いからといって敗北を認め今戦争をやめたら、これまでに死んだ英霊に申し訳ない」といった反論が多かったようです。戦争はやはり、狂気、極限の状況に他なりませんね。本来、「死んでまで…するの?」といった思考の安全弁があるはずですが、その場の熱気でそれも溶解してしまうのでしょう。本来この進言こそ、死者累々の現実を見て、沸き立った勇気あるものだったはずです。そして死者の霊に報いる、まさに鎮魂の手段が「終戦」であったはずなのに。むしろそのまま戦争を続けることは、思い半ばにして倒れた先人の死を冒涜するのではと、どうして考えなかったのでしょう。戦争を始めるのも一部の人(高位の人)の意見ですが、戦争に固執し、あくまで遂行しようとするのも一部の人(高位の人)です。しかし過去になされた多くの戦争では、戦争終結が訪れた時、真っ先に安住の地に身を潜めたのも彼ら(高位の人)です。テレビから流れるウクライナ市民の声はほとんどが戦地の夫の無事を願う声、あるいは避難先の家族を思う声です。ウクライナの勝利を願う声などほとんど聞こえません。もちろん兵士は愛国や戦勝を語りますが、空しい忘我の表情を見てしまいます。またウクライナが一方的に悲惨な侵略をされた側であっても、その為政者、権力者がとった対応の全てが正しかったとは言えないかも知れません。例えばロシアがかくのごとく野蛮な国であると予想していたなら、初動の対応(NATOへの対応など)にも稚拙感は否めません。ともかく、まずは人命尊重のための早期の終戦が必要です。そのためにはウクライナへの軍事支援は果たして妥当なのか。戦争を長引かせるだけではないのか。さらに戦争の長期化につれて、この戦争が欧米の代わりにウクライナが戦う、まさに代理戦争の様相を帯びてきました。もしこの戦争でその国民の大半を失い、焦土と化した国土になるなら国家とは何かと、つくづく思ってしまいます。欧米メディアもプーチン氏の極悪非道さや重病説まで流布し、その対抗措置(経済制裁や軍事援助など)の妥当性を盛んに喧伝しています。もちろん国内でも同様で、その立ち位置が楽なのか政治家も識者も米国の価値観や方針に従った思考や発言一色で、言論の多様性がある国とはとても思えません。しかし結果的には戦争終結しか死者を無くす方策が見当たらない以上、それがどんな国であろうと説得し、終戦にこぎつける勇気と良心と理性の発揮が必要だと思います。テレビの伝える戦況報道番組はウクライナ側からの視点に偏在し、ロシアからの視点はおおよそ欠落しています。いわば米国の視点に立脚したその報道は、局としては様々な圧力や軋轢を生まず、とても楽かも知れません。ただ戦死者を無くすという視点こそ大切で、戦争を終わらせるには両当事国の意見を予見無しで報道することが何よりも必要なはずです。欧米各国や日中、さらに国連やNATOさらにメディアは、この戦争を決して煽らない。ただただ人命尊重の一点で協力し話し合い、何が何でも終戦といったゴールに一刻も早く到達してもらいたいと思っています。
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