119なんでも「差別だ!」とは不適切にもほどがある?

 ちょっと前、川勝静岡県知事の発言が炎上しました。その発端は県新人職員への訓示内容でした。では何が問題だったのでしょう。連日テレビでは知事に対して下品な罵詈雑言が渦巻いていましたから、ご存知だとは思いますが、こんな話です。『県庁というのは、別の言葉で言うとシンクタンクです。毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたりするのとは違って、基本的に皆さんは知性が高い方たちです』といった知事の訓示。そしてこれを聞いたマスコミも含め、いわゆる「世間の良識者」たちが、この話を職業差別と見なしたことから起こりました。知事の記者会見場でも、鬼の首でも取ったような記者質問。そしてテレビや新聞は明けても暮れてもそれを「差別」と断罪しました。その状況は「思想信条の自由や多様性を認め合う社会」などと日頃は呪文のように唱えるマスコミ自身が、渦中の川勝知事の弁明を全く聞こうとしない対応。まさに差別者と非差別者といった二項対立的ドグマに陥っているのではと思えるほどの体たらくでした。それはこの問題に限らずメディアが「差別だ」と言う時、その差別について考慮、熟慮し、さらにはよく検討された上での「差別だ!」といった発言でもなさそうだからです。つまり今のように、差別者対非差別者といった二項対立的に見る習慣は、過去に「差別者」として糾弾された忌まわしい記憶からか「非差別者が差別だと言うならそれは差別に違いない」「早く差別反対を言わないと差別者と同類に見なされ自分たちも糾弾の憂き目に遭う」といったトラウマ的恐怖のなせる業なのでは。今日はそんなHatenaですが、こんなのブログの話題としては不適切にもほどがあるでしょうか?

119なんでも「差別だ!」とは不適切にもほどがある?

<2024/4 飛騨 臥龍桜>

<2024/4 薄墨桜>

 まずこの話、知事は「毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたりするのと違って…」と話していますが「野菜農家の人、あるいは酪農家」といったようにに具体的な職業で話していません。なのに、この話を聞いた記者やいわゆる「良識者」が、それを農業や酪農従事者と判断したとしたなら、その人たちこそ潜在意識の中にある種の固定観念があるような気もします。つまり<それはきっと農業や酪農従事者のことであり、またそれは肉体労働者でインテリとはとは言えない人を指している>といった思考回路が内在していそうにも考えられます。 そもそも職業差別とは無縁と思われがちなメディア関係者でさえ、その実とても怪しいんですよね。例えば名前の後につける呼称の「氏」について、新聞やテレビを注意して見てみてください。その人の年齢や社会的地位も考慮されてはいますが、多くは職業のちがいで「○○氏」になるか、あるいは「○○さん」という呼称になるかを決めていそうです。例えば同じ山田姓でも、「山田氏」になったり「山田さん」になったりと、見ますよね沢山。「そんなことあらへん」と思う方は、では一度ご自分に置き換えて考えてみてください。今の職業や地位を考慮すると、ご自分がテレビや新聞で「○○氏」か「○○さん」のどちらで紹介されるかをある程度予測できるはずです。余談ですが犯罪者になるとその立場は全否定され「さん」や「氏」などの呼称などではなく、呼び捨てあるいは○○容疑者になってしまいます。例えば、あの通訳の人のように、訴追された日から呼称が氏から容疑者に変わる場合です。ともあれ「職業に貴賤は無い」と言いますが、残念ながらだれもが潜在意識の中に職業の上級下級意識はありそうです。またさらに付言すれば、そもそもこの「差別だ!」という言葉自体、恣意的になりやすい曲者です。それはよく「差別を受けたと感じる人がいれば、それは差別だ」言われますが、考えてみると一種それは独善的思考停止のファナスティック感覚とも言えそうです。そもそも「差別問題」でいえば、日本には今も残る部落差別問題があります。ご存知の方も多いと思います。それは江戸時代の身分制度の中で最下層に置かれ、明治維新後も島崎藤村の小説「破戒」に描かれたような、職業や婚姻の自由も認められない理不尽な我が国固有の差別です。戦後は民主化の中で、そうした差別に反対する運動も活発に行われるようになりました。しかし不幸にもそうした団体の活動が一部先鋭化し、中でも八鹿高校事件(1974年11月22日、兵庫県立八鹿高等学校で集団下校中の教職員60名を部落解放同盟の同盟員が学校に連れ戻し、約13時間にわたり糾弾・監禁・暴行が行われ、教師48名が負傷、内29名が重症。1名が危篤となった事件)のように、教諭に対する集団リンチ、監禁事件が発生しました。さらに当時は団体による同和問題の啓蒙といった理由での執拗な企業訪問や街宣活動も行われました。またそうした団体とは関係ない「似非同和」と呼ばれる組織も暗躍し、そのため多くの企業には同和対策室が設けられ、応対話法などの社員教育も頻繁に行われました。しかしそれでも対応に苦慮する事案が全国で発生しました。中でも「お気の毒事件」は、企業の担当者にとって注視すべき事例となりました。それはある企業へそうした某団体の人が訪問した折、企業の担当者が漏らした一言でした。通常こうした訪問の場合、そうした団体の人が企業側の担当者に話す内容は、部落問題の起源やその経緯。さらに今に続く差別の実態など。しかし、その時は重大な展開が待っていました。話を聞いた企業担当者は朗々と語られた話に、社交辞令ではなく心底感情を揺さぶられ吐いた言葉が「お気の毒ですね」の一言。それで事態は突如急展開です。「お気の毒ですね…とはなんだ! それこそ上から目線の差別だ!」と、それは幾日も続く糾弾の始まりでした。また類似した事件は幾つも続き、それはいつどこから「差別だ!」といった糾弾の炎が燃え立つのかわからない暗中模索の不安に駆られた時代でした。当時は企業のみならず、多くの政党やメディア、時には警察さえもそうした糾弾に萎縮。八鹿高校事件ほどの類例を見ない大事件でさえ、テレビや全国紙の多くは全く沈黙し、それを報道したのは一部の地方紙や週刊誌、さらには日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」のほかにはほとんど見当たりませんでした。その後、当時長野県知事であった田中康夫氏やハンナン(牛肉偽装事件)事件などに対峙した小泉純一郎首相といった果敢な政治家の取り組みによって、そうした理不尽なタブーへの挑戦的な動きが生まれました。しかし、先ほどの話にもあるように、メディアの「差別」に対する恐怖心やトラウマの残滓は今も命脈と受け継がれているようです。たしか、あるベストセラー本の中にこんなことが書かれています。米国では差別の判断基準事例として➀「黒人は陸上競技が得意と言うのは」は○、「白人は物理が得意と…」は× ➁「黒人は物理が苦手と…」は×、「白人は陸上競技が苦手と…」は○とか。どうです、物理学とスポーツとを比べるとその価値に上下でもあるというのでしょうか。それとも、しょせん「差別かどうかの判断」というものは客観的や合理的に捉えることは甚だ難しい事柄。やはりその場の雰囲気や自己保身、損得勘定。つまり時代やその場の趨勢に順応して生きれるかどうかの踏み絵のようなものというか、とにかく厄介なもののはずです。そして、このご都合主義的とも言えそうな「差別!」の判断基準。少なくとも米国がよく言う「普遍的価値」などとはとても言えない代物のように思えるのですが、どうなんでしょう。

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