14.差別

今朝、朝日新聞天声人語欄に、あの「森発言」が載っていました。「女性が多い会議は時間がかかる」という実に単純なようで、そうでもなさそうなテーマで、またそれに付随して泥縄をつかむような当時の狂騒を思い出しました。と言うことで、本日の「疑問」はこれです。

疑問14(森発言と差別)

この発言、当時も思ったのですが「男性が多い会議は時間がかかる」という発言だったらどうでしょう。もちろん発言者が男性の場合や女性の場合でも考えた方がいいでしょう。やはり大きな批判の渦が巻き起こるのか、平穏無事に聞き流されるのか、今はまだわかりません。よく「相手がハラスメントと思えば、それはハラスメント」という誤った言説がありますが、正しくはハラスメントの認定についても、特定の個人感覚に依拠するのではなく、ある程度の客観性や普遍性が必要です。今回の件については、ことさら性差を強調し、その性的優位性あるいは劣性を語ること、さらにそれが大組織における長の発言であることがジェンダーや多様性を認め合う今の社会趨勢にそぐわないもの、そう糾弾されたのでしょう。ただ当時、その発言の真意、発言者の背負ってきた時代背景、その文脈なども含めその発言が本当に離任を迫るほどの悪意ある「差別発言」であったのか、十分に吟味されたのでしょうか。当時から個人的にはもう少し内容の検討があってもよかったのではと思っています。要は「差別だ!」という批判や糾弾に人はかくも弱く、もろいものです。それに誰もが持つ「渦中の栗など拾いたくない」といった安寧指向の感情と「長い物には巻かれろ」式の自己保身が、かえって批判の声を収れん増幅させているのかも知れません。ですからこうした「差別」のような、その基準や概念が曖昧模糊となりうる言葉については、その発言者を批判、糾弾する前に、まずは冷静にその発言内容の吟味や深い思慮と考察が必要のように思います。それをしなければ、「差別」と思われるような発言に近ずかない(実際は何が差別か分かっていない場合もありそう)、触れない。つまり差別につながる危険を持つ言葉におののき、それを汚れたタブーと見なして、心の奥底に封印するだけの行為になってしまいそうです。そんな情緒的対応だけでは、これからも巷に浮遊する様々な差別感情を昇華、霧散できるような社会の構築は永遠に無理かもしれません。不思議なのはまず最初、その「差別」発言なるものの言質を解析して、なぜ広く世間にその本質や実態の説明がなされないのでしょう。新聞、テレビでは「差別だ、差別だ」の大合唱が続くだけです。それこそメディアがその検証の中心を担うべきなのになぜ? ともかく、いつの世も「差別」の問題は影のように付きまとう難題ですね、つくづく実感。

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