幾多の時代評価を担保できるような、そんな大それた普遍的価値なんてあるのでしょうか?今日は、そんな「普遍的価値」なるもののHatenaです。そこで題名の「うそ大河」とどう関係するの?…とお思いでしょう。正直焦点がぼやけています。まあ、全体を読んでいただくと「まあ、そんな話か…」と、なんとかご納得いただけると思います。
(104)うそ!大河
殺人に限っても現に死刑制度はあるし、本来大量殺戮(ジェノサイド)の殺人鬼であるはずの王や殿様や武人などが「英雄」に祭り上げてられているといった、とんでもなく「普遍的価値観」などとはかけ離れ、一貫性のない矛盾まみれの事象が見受けられます。中でも戦争中毒や強欲資本主義と呼ばれる米国流の普遍的価値観の押し付けはグロテスクです。チャップリンの映画「殺人狂時代」の台詞にこんな名言があります。「一人を殺せば殺人者だけど、百万人を殺せば英雄になれる。つまり殺人は数が多けりゃ神聖化される」と。ここのところが今回のポイントなんですが、ちょっと話の視点を変えます。前にもこのブログに書いたように、今米国では「英雄」と言われた人のブロンズ像が次々に破壊や撤去されています。例えばボルティモアにあった米国人にはとても馴染み深い超有名な南部連合軍のリー将軍やジャクソン将軍の像などが、昨今の「普遍的価値観」の大転換で、英雄像は今や人種差別者の元凶として撤去されてしまいました。困ったことに、こうした像は今も全米にまだ700体以上あって、今後も破壊か撤去の憂き目に遭いそうだそうです。ここでまた映画「殺人狂時代」の話に戻ります。今の時代でもチャップリンのその台詞は燦然と輝いています。例えば今回のウクライナ戦争など「戦争の大義」なるものが、どちら側にあるかは別にして、政治家やメディアは何ら戦争終結の手段を模索することなく、日々の大量殺戮を「ゼレンキー氏はエライ!」とか「さすが英雄!」と言って煽っているだけです。果たしてそうした大量殺戮といった行為に触れない事や、あるいは隠蔽、そして「百万人を殺せば英雄」といったような、ご都合主義的価値観のままで将来にわたる時代評価を担保できるのでしょうか。卑近な例になりますがNHK大河ドラマの潮流も、歴史歪曲大合唱で、毎度安っぽい英雄賛歌の真っただ中です。そこでは「英雄」の犯した大量殺戮は言うに及ばす、パワハラ、セクハラや人格破壊の側面を隠蔽した英雄、英傑伝だらけです。それでもいつか来るだろう価値観の大変容。英雄像の破壊や撤去が雪崩のように始まったら、NHKビデオライブラリーも安価で放出されるのかなぁ。それとも「歴史歪曲、隠蔽の映像文化研究資料」として史料価値が上がるのかなぁ。…と、あくまで即物的な発想が浮かんでしまいます。
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